◆ 目次 ◆ ———————————————————————-
(1) 所長だより
(2) 子どもから学ぶこと
(3) ちょっと振り返り
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◇ 所長だより ◇
カンファレンスによる授業研究
教職教育開発センター所長 吉崎静夫
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
今回は、前回に続いて、授業研究法を紹介いたします。
稲垣忠彦らは、1980年代はじめから、「授業のカンファレンス」として事例研究を展開してきました。それは、「医師が研修病院や臨床研究会で、臨床の事例にもとづき、その事例に対する参加者の判断を出しあって検討をすすめ、より適切な診断をもとめるとともに、そのような検討を通してプロフェッションとしての医師の力量を高めていくように、授業においても実践の事例に即して検討をおこない、それをプロフェッションとしての成長の基盤にする」という提案です。というのも、学校は、複数の専門家による共同的実践の場という意味において、研修病院と同じ性格をもっていると、稲垣らは考えたからです。まさに、学校も研修病院も「専門的な学習共同体」だといえます。
なお、「授業のカンファレンス」の方法は次のとおりです。
〈1〉授業研究の中心は、共同でみる授業、またはビデオによる授業の記録です。
〈2〉研究会では、その授業に対する意見、判断を交換し、相互に授業を見る目をひろげ、深めていきます。
〈3〉同じ教材を用いて二人の教師がそれぞれに自分の案で独自に授業を行い、その比較を通して、それぞれの授業の特質や問題点を検討します。なお、二つの授業の比較は、いずれかの優劣を評定するものではなく、それぞれの授業の意義と問題点を検討することによって授業に対する理解や知見をひろげるためです。
このように、カンファレンスによる授業研究法は、授業者ばかりでなく、授業観察者が「授業をみる目」を磨き、自らの授業観を省察するのにふさわしいものだといえます。
(文献)稲垣忠彦・佐藤学(1996)『授業研究入門』岩波書店
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◇ 子どもから学ぶこと ◇
朝会
教職教育開発センター客員研究員 木村俊彦
10月原稿で、「S小学校長の朝会の様子」を書きました。毎回長めの話になるのですが、子どもも職員も楽しみにしていたのです。しかし、全ての校長がこんな話術を持っているわけではなく、私は毎回辛い15分間に立ち向かっていました。
ところで、例えばこの朝会を行わない・校長の話を加えないなどといった考えは許されるのでしょうか?
特別活動の指導要領における学校行事の目標には
『学校行事を通して、望ましい人間関係を形成し、集団への所属感や連帯感を深め、公共の精神を養い、協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる。』
と書かれています。
また、その中の(1)儀式的行事については
『全校の児童及び教職員が一堂に会して行う教育活動であり、その内容には、入学式、卒業式、始業式、終業式、修了式、開校記念に関する儀式、着任式、離任式、朝会などが考えられる。』
と示されています。
ということは、学校行事の中に朝会を組み入れる場合は「(年間設定できる40回前後を通す中で特別活動のねらいを達成する)そのためには(ねらいの明確化と達成に向けた内容・方法を吟味する)ことが重要であり、それが欠落すれば朝会の存在の意味がない」ということを忘れてはならないと思うのです。
校長として2校目に赴任したH小学校の朝会は毎週月曜日に設定され、必ず8時15分になると 「今日は月曜日、8時30分から朝会が始まります。遅れないように体育館に集まりましょう」 というお決まりの放送委員会からのアナウンスが流れます。迎えた第一回目の朝会、(集合の仕方)(体育館での待ち方)(職員の対応の仕方)などほとんどのことが各先生方個々に委ねられていました。定刻5分程経過した頃、 「お話をやめて静かに整列しましょう。起立!」 という司会の先生の号令によって朝会が始まりました。H小の朝会が(月曜日・8時30分・体育館)という決まり事であるならば放送の必要もないし、(全員が集合して・号令がかかって)開始するならば5分遅れの号令に疑問が残ります。それが儀式なのでしょうか?皆さんの学校はどんな様子ですか・・・・・
第二回目の朝会に向けて、担当の先生に 「月曜日の委員会の放送と体育館での号令を止めてもらえますか」 というお願いをしました。すると、 「静かにならなかったらどうしますか?」 という質問が返ってきました。そこで、 「私は8時30分に壇上に立ちます。そして、静かになるまで待っています。終わりの時刻までうるさければ、『今日の朝会はこれで終わります』と言って降壇しますよ。何回目かには子どもも気付くことがあると思いますよ。朝会のねらいは号令で静かにさせることではなく、一年かけて定刻に朝会が始められる子どもの育ちを期待していく学習だと思うのですが・・・・・」と答えました。
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◇ ちょっと振り返り ◇
ケアしていますか
家政学部児童学科特任教授 稲葉 秀哉
「ケア」という言葉は幅広く使われています。(肌や髪の)手入れ、看護、介護、相手への気遣い、思いやり、お世話等々。さて、皆さんはどうでしょう。どのような「ケア」をしていますか。「ケア」することを「ケアリング」(Caring)と言います。「ケアリング」は、医療関係や看護の世界で使われる言葉です。
「一人の人をケアするとは、その人の成長や自己実現を助けることである。そして、その過程を通して、ケアする側とされる側との間の相互の信頼は深まり合い、ケアする側の人自身も成長していくものなのである。」と哲学者ミルトン・メイヤロフは、著書の「ケアの本質」の中で論じています。
ヘレン・ケラーは、「他の人をケアすることを通して、他の人々に役立つことによって、ケアする人は自身の生の真の意味を生きているのです。この世界の中で、私たちが心を安んじていられるという意味において、この人は心を安んじて生きているのです。それは支配したり、説明したり、評価しているからではなく、ケアし、かつケアされているからなのです。」「もしあなたが不幸のどん底にあっても、この世には自分にできることがあるのだ、と信じましょう。誰かの苦しみを和らげてあげられる限り、人生は無駄とはなりません。人生で最も胸が高鳴るのは、他人のために生きる時なのです。」と言っています。
私は「ケア」をこれからの社会の親子関係や友人関係、教師と教え子の関係等の在り方を考える上で重要なキーワードであると考えています。
親と子ども、子どもと子ども。教師と生徒、生徒と生徒。お互いの適切な「ケア」が気遣い思いやり合う協同的な関係を作り、家族や家庭、学校を支え、つくっていくように思います。
「ケア」は一方的な行為ではありません。例えば、親による子どもへの読み聞かせ。感情を込めて読み聞かせることで、子どもの心は生き生きと動き出します。読み聞かせを通して、親と子どもの心が互いに響き合い、子どもの心ばかりでなく、親の心も育ちます。
教師と教え子もまた同じです。子どもの心に寄り添い、子どもの言葉や表情から思いや考えなどを理解しかつ受け止め、その子どもの良さや可能性を理解しようとする時、その働きかけは自分に跳ね返ってきます。「子どもと共に成長する教師」の真の意味は、こういうことなのだと思います。
他の人の成長を手助けすることで、自分自身も人として高まり、成長し、互いの自己実現に繋がる。ケアリングにおける相互作用。なんと素晴らしい事でしょうか。私は、教師を目指す若い学生たちに、このことを理解してほしいと思っています。皆さんも、ちょっと立ち止まって、これまでにどのような「ケア」と関わってきたか、振り返ってみませんか。