カモミールnetマガジン

2018年8月号

◆ 目次 ◆ ———————————————————————-

(1) 所長だより
(2) 児童・生徒の理解と指導 ―教師の「視点取得能力」の獲得と育成を中心に―
(3)教育時事アラカルト


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◇ 所長だより ◇

授業研究における理論と実践の関係(6)
           教職教育開発センター所長  吉崎静夫

 今号は、「一寸法師のモデルは誰か?」という有田和正(2012)が実践した小学校6年生の社会科(歴史)の授業を取り上げます。
 この授業は、一寸法師の話から、戦国時代の下剋上を考えさせるものです。そして、授業は、次のような発問と指示を中心に展開されました。※1

(1)「一寸法師」のテープを聞かせ、歌わせる。
(2)今日は、「一寸法師」の勉強をします。あらすじを話しなさい。(提示・指示)
(3)「今の話を大きく分けると、4つの場面になります。どんな順序に並べたらよいでしょうか」と言いながら、4枚の絵を提示する。(発問)
(4)「一寸の人間がいるでしょうか」と問い、いないことを確認してから、「『小さい』ということは、どんなことを表しているでしょう。」と問う。(発問)
 この場面において、「小さい」ということは、「経済力がない」「地位が低い」「武力が弱い」といった考えを引き出します。
(5)「一寸法師は、どんな願いをもって都へのぼったのでしょうか。」と問い、「金もうけをしたい」「高い位につきたい」「強い武力がほしい」という願いを引き出します。(発問)
(6)「都にのぼった一寸法師は、鬼退治をしました。これは、何を表しているでしょうか」(発問)
 「悪人をやっつける」「戦いに勝つ」「武力が強くなった」という意見を引き出します。そして、これらは、「手柄をたてる」ことを意味していることに気づかせます。
(7)「最後に、姫を嫁にしました。これはどんなことを表しているでしょうか」(発問)
 「出世、成功、天下をとる、権力を手に入れる、ほうびをもらった」などの考えを引き出します。
(8)「一寸法師の願いは、どんな人の願いでしょうか」(発問)
 「ずっとおさえられていた農民の願いではないか」「位の低い武士が、なんとか高い位につきたいという願いではないか」「おちぶれた将軍が、大きな力をもう一度もちたいという願いではないか」「なんとか大もうけをしたいという商人の願いではないか」「高い位につきたい僧の願いでないか」といった考えを引き出します。
(9)「これはなんという言葉で表すでしょうか」(発問)
 ここまでくると、「下剋上」という言葉がでてきます。
(10)「下剋上というのは、何時代のことでしょうか」(発問)
 戦国時代ということが出てきます。
(11)「では、一寸法師のモデルは、誰だと思いますか」(発問)
 秀吉がいちばん多い、ついで、家康、信長、道三、光秀などが出てきます。
(12)この中で、誰がいちばんモデルらしいか調べてみましょう。(指示)
 そして、最後に、「下剋上のようなことができた時代は、戦国時代のほかにはないのだろうか」と問いかけます。(発問)

 本当におもしろい授業だと思います。筆者がこの学級の子どもだったら、わくわくしたことでしょう。

 では、このような授業は、他の教師でも実践できるのでしょうか。

 まず、一寸法師というネタは集めることができます。次に、上述した12段階の「発問・指示」をすることはできるでしょう。しかし、教師の発問・指示に対する「有田学級の子どもたちのような意見や考え」は出るのでしょうか。
 例えば、
「『小さい』ということは、どんなことを表しているでしょうか。」
という問いに対して、
「経済力がない」「地位が低い」「武力が弱い」といった意見が出るのでしょうか。
 あるいは、
「一寸法師の願いは、どんな人の願いでしょうか。」
という問いに対して
「ずっとおさえられていた農民の願いではないか」
「位の低い武士が、なんとか高い位につきたいという願いではないか」
「おちぶれた将軍が、大きな力をもう一度もちたいという願いではないか」
「なんとか大もうけをしたいという商人の願いではないか」
「高い位につきたい僧の願いでないか」
といった考えが出るのでしょうか。

 このような意見や考えが子どもから出てくるためには、日頃から探究的な学習に意欲的に取り組み、そのこと自体が楽しくて仕方ないと感じる子どもを育てる必要があります。
 したがって、教育技術論から言えば、「ネタの発掘」と「ネタを生かす発問や指示」は、他の教師にも伝達可能な「一般的教育技術」ですが、探究的な学習を嬉々として行う子どもを育てる教育技術は有田和正という優れた教師の個性的なものだといえます。

【参考文献】
※1 有田和正:『社会科授業の教科書〈5・6年〉』:さくら社,2012年

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◇ 児童・生徒の理解と指導   ―教師の「視点取得能力」の獲得と育成を中心に― ◇
           家政学部児童学科特任教授  稲葉 秀哉

<5> 「一致」(Congruence)

「一致」は、7月号でも紹介したように、「カウンセラー自身が、人間としての自分自身が感じていること、考え、価値観、体験に気づいていて、それを否定したり歪めて、自分を隠したり、必要以上によく見せたりせず、そのままの人間としての自分を受け入れて、一人の人間としてクライエントの前で存在していること」を言います。
 しかし、「一致」という言葉の響きから、「カウンセリングの場を離れていてもカウンセラーは常に一致しているべきである」「常にクライエントに対して肯定的な感情を持っていることが不可欠であり、クライエントに対して何らかの否定的な感情(「今日はこのクライエントが怖く感じる」「自分自身の問題が気になってクライエントに耳を傾けることができない」等)を抱くことはカウンセラーとして失格である」等と考えてしまうことがあります。

 ロジャーズ(1957)※1は、このことについて次のように述べています。
「セラピスト*が、その生活の全局面において同じ程度の統合性や全体性を示すような模範である必要はない(それは不可能なことである)。セラピストは、この関係のこの時間において正確に自己自身であり、こうした基本的な意味でセラピーのこの瞬間においてありのままの自己であれば、それで十分なのである」
(*注 「セラピスト」と「カウンセラー」を本論文では同義語として扱います)

 また、これについて本山(2015)※2は、
「クライエントに否定的な感情を持つことは、セラピスト自身、なかなか受け容れることは困難である。しかし、セラピストがそのような感情も自分の中にあることを受けとめ、ありのままでいようとするときに、一致した態度としてクライエントに映るのだと思われる」
と述べています。
 また、岡村(2007)※3は、
「一致をめざすということは、結局いかに不一致であるかに気づくということ」 であると述べています。
 本山(2007)は、「一致」について
「一致しようとするのでなく、自分が〈不一致〉の状態であることに気づいていようとする態度である。一致した状態であることがいかに難しいことであるかを自覚すると共に、〈不一致〉の状態であったとしてもそのことに気づき、そのことを肯定的な目で受けとめていくことが、つまりは一致した態度を示しているのだと言えよう」
と述べています。

 「一致」の難しさについて、本山(2007)は
「クライエントの話をどうしても受け入れることができないと感じたとき、クライエントの話を無条件に受け入れたいという気持ちと、そうできない気持ちとの間に葛藤が生じることになる。この両者の気持ちの間に矛盾や葛藤を、セラピストはどう捉えていったらよいのか。ここに《一致》の大きな難しさがある」
と述べています。

 坂中(2002)※4は、「一致」について
「セラピストが(クライエントとの)関係のなかで自分自身の感情をありのままに受容し、共感的に理解しようとすること」
であると述べています。
 それゆえに「一致」は「純粋性」(純粋で偽りのない姿でいること)とも言われ、他にも「透明な(transparent)」「真実で(real)いること」等の言葉で表現されているのです。7月号で述べたカウンセラーに必要な「揺るがない自己」とは、「カウンセラーが、クライエントとの関係の中で、ありのままの自分でいる」という意味での「一致」を言っているのです。(次号に続く)

【参考文献】
※1 Rogers,C.R.: The Necessary and Sufficient Conditions of Therapeutic Personality Change. Journal of Consulting Psychology: Vol.21, No2, 95-103, 1957(伊東 博訳: 「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」, 『ロジャーズ選集(上)』: 265-285, 誠信書房, 東京, 2001年)
  ※2 村山正治監修, 本山智敬編著:『ロジャーズの中核三条件〈一致〉 -カウンセリングの本質を考える1』: 創元社, 大阪, 2015年
※3 岡村達也: 『カウンセリングの条件 -クライアント中心療法の立場から』: 日本評論社, 東京, 2007年
※4 坂中正義ほか:「私とクライエント中心療法、もしくはパーソン・センタード・アプローチ –理論と体験の相互作用から」, 『クライエント中心療法と体験過程療法 –私と実践との対話』: ナカニシヤ出版, 京都, 2002年

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◇ 教育時事アラカルト ◇

熱中症の危機管理
-「経験」から「科学」へ-

           教職教育開発センター教授  坂田 仰

 7月17日、愛知県豊田市の公立小学校で、1年生児童が熱射病(重度の熱中症)で死亡するという痛ましい事故が起きた。児童は、炎天下、校外学習から徒歩で戻り、クーラーのない教室で倒れたという。
 この日、豊田市の気温は、午前9時には30度を超え、正午には35度近くまで上昇していた。コンクリートで固められた道路からの照り返しや放熱があり、身長が低く、体力的にも発育途上の小学1年生にとって、数字の何倍も過酷な状況であったものと考えられる。

 それにもかかわらず、なぜ学校は校外学習を強行したのか。
 マスメディアによれば、校長は、「これまで校外学習では大きな問題は起きていない。気温は高かったが中止するという判断はできなかった。」と発言しているという。まさに経験に基づく学校経営、教育実践の発露といえるだろう。

 だが、文部科学省は、
「学校の管理下における熱中症事故は、ほとんどが体育・スポーツ活動によるものですが、運動部活動以外の部活動や、屋内での授業中においても発生しており、また、暑くなり始めや急に暑くなる日等の体がまだ暑さに慣れていない時期、それほど高くない気温(25~30℃)でも湿度等その他の条件により発生している」
としている(「熱中症事故の防止について(依頼)」平成30年5月15日付け30初健食第4号)。
 校長は通知を読んでいなかったのか。疑問は尽きない。

 この失敗から何を学ぶべきか。
 それは、熱中症の危機管理を「経験」から「科学」へとシフトさせることであろう。
 気象庁が「異常気象」と宣言する状況の下では、これまでの経験は通用しない。熱中症を科学し、そこで得られた知識を活用した学校経営、教育実践こそが求められているのではないか。

 先の文部科学省通知は、熱中症に関するホームページを掲載し、それを参考とするよう呼びかけている。中でも環境省のホームページに掲載されているWBGT、いわゆる「暑さ指数」の理解は必須となる。暑さ指数は、近年、天気予報等に必ずと言ってよいほど登場するようになっている。その確認が熱中症への科学的対応の第一歩と言ってよいだろう。

※「暑さ指数」
暑さ指数(WBGT:Wet Bulb Globe Temperature/湿球黒球温度)は、(1)湿度、(2)日射・輻射(ふくしゃ)など周辺の熱環境、(3)気温の3つを取り入れた指標で、人体と外気との熱のやり取り(熱収支)に着目した指標。1954年に、熱中症の予防を目的としてアメリカで提案された。
【参照】環境省 熱中症予防情報サイトより「暑さ指数(WBGT)について学ぼう」
http://www.wbgt.env.go.jp/wbgt_lp.php